「ワーニャ伯父さん」とロシアの人々について

この間、ドライブマイカーという映画を見た。

この映画の作中劇でロシアの劇「ワーニャ伯父さん」があるのだが、今回はそれを読んでみた。

ロシアの大きすぎる自然の中で

ロシアというのは大国で資源に恵まれていて裕福なのだろう、というイメージが自分にあった。しかし、それは都市部だけの話であって、地方の人間は決して裕福ではないのかもしれない。少なくともこの「ワーニャ伯父さん」に限って言えば、ロシアの暮らしは寒くて、精神的に貧しい。登場人物が言葉を発したかと思えば、「何もいいことがない」と言わんばかりのセリフばかりだ。

ここで言いたいのは決して貧困で生活が立ち行かない、という話ではない。それどころかこの作品には学者、医者、地主などの登場人物が出てくるし、ワーニャ伯父さん自身も生活には困っていない。しかし、そうだとしてもこの物語の登場人物はネガティブな人間が多い。なぜこれほどにもネガティブなのか。

それはその天候や文化に起因していると思われる。寒冷地特有の凍えるような寒さ、自然の中や農地で仕事を毎日するがそれでは補えないほど幾多の時間、大国だと言われながらも変わらない自分の生活。そういったところをフォーカスしていくと確かにネガティブになる要素は多くありそうだ。

この作品だけ見るとロシア文学はネガティブで暗いと思ってしまう。しかし、そこには自分の過ちを自省する気持ちや自分の意見を言う素直さがある。会話をすればいろいろな人間に悪口を言い散らしてしまう描写は、登場人物がこの非文化的な民衆(僕がそう思っているのではなく登場人物がそう言っている)や寒すぎる天候を忌み嫌っているのにも関わらず、それを変えることができない自身の非力さを恨んでいるようにも思える。

その上で、素直に自分たちが思っている暗い気持ちをぶつけているのだけれど、結局は”それでも生きていかないといけないのです””仕事をしましょう、仕事を”というところに会話は落ち着く。そして、皆自分の生活にそれぞれ戻っていく様は目を見張るものがある。ここがネガティブがポジティブに変わる瞬間である。

希望を見出せるか

この作品からは寒すぎる天候、非文化的な民衆、決して戻らない自分の青春、など自分でどうすることもできない事象、より大きなものに対する、変えることのできない事象に対する恨み、憎しみが読み取れる。しかし、諦めてどうすることもできない、どうしようもない、と諦めに向かっているのではなく、自分の出来ることをする、生きていこうとするところが味わい深い。例えるなら、まるで真っ暗闇の深い森で出口を探し、行ったり来たりを繰り返した先にやっと見える光のようなものだ。

それは他の作品でいうと「村上龍/限りになく透明に近いブルー」が近いだろうか。最終盤で手元にあるガラス片を見て、あることに気づいた主人公や作品自体のメッセージ性が村上春樹の”自分より大きく動かせないものに対抗する姿勢とそれに対する心の準備、あるいはそれを時には受け入れる気持ち”と似通っている。そういった普遍の辛さの中に希望を見出す物語性は日本文学や世界の文学にも通じるものがあるのではないだろうか。