田中はゆるくいきたい

「不寛容という不安」人は都合のいい思想や耳障りの良い物語しか信じることができないのだろうか

人間という種族はこれまで科学を発展させてきて、あらゆるものの説明を数式や論理で行ってきた。それにも関わらず、現実世界ではたくさんの人間が嘘か本当か分からない情報、狭い世界しか見てない他人(自分)の考え、耳障りの良いことだけを言う政治家などに騙され続けている。そういった世界でどうやって生きていくべきなのか「不寛容という不安」という本を読みながら考えていた。

アイデンティティや居場所がない人が向かう先

これまでは仕事場や家族・地域・社会などが人間たちの居場所やアイデンティティであった。しかし、変化が激しくなったり、それに適応できなくなる人間が増えるとその肩書自体にアイデンティティや居場所は無くなってくる。

実際問題、今の世の中に絶対に安定した仕事というのは無い。ここ10年くらい「テレビ業界が安定だ」「銀行が安定だ」「商社が安定だ」と親やニュースなどでも見たり聞いて育ってきた人は多いだろう。しかし、その前述した職業が安定だと胸を張って言える人間はどれくらいいるだろうか。時代や環境によって給料や成長する分野は変化し続けるし、それはこれから加速するだろう。

こういった時代において仕事に「安定」を求めるのは古いといえるし、ましてや仕事に「アイデンティティ」「居場所」を求めるのは正直厳しいと思う。そういった人間はどこに向かっていくのだろうか。

物語・宗教・思想

そういった喪失した「アイデンティティ」を補完してくれる装置は実はたくさんある。

1つは物語だろう。自分の耳障りの良い物語を聞いて安心をしたり仲間を見つけることができる。それはアニメでも漫画でもいい。そういった文脈の物語があれば映像やストーリーに違いはない。

2つ目として挙げるのは宗教。これはどんなに救われない状況でも「生きていて苦しくても神はすべてを見ている」と思うことによってアイデンティティと人生の苦しさを補完できる。

3つめは思想。政治活動ともいえる。誰かを敵とけなすことにより、仲間外れだと罵ることにより、味方の団結を図る。時には暴力が伴うこともあり大変危険。

このほかにも自分の「居場所」や「アイデンティティ」と言えるものは沢山あると感じるが、この3つをそう感じている人は多いように感じる。

ゆるく、広く、つながる

上述したジャンルが嫌いな人や「アイデンティティ」や「居場所」を見つけられない人はどうすればいいのだろうか。個人はどうやってこの世界を生きていけばいいのだろうか。

「不寛容な不安」でその解決策は仕事・家族以外の集まりやコミュニティに所属することだと言う。しかし、僕は特定のコミュニティに入れ込みすぎないこともかなり重要だと思っている。一つの思想に染まりすぎると自分の人生がその特定の思想だけのものになってしまうからだ。それでは「特定の思想」の人生であって「自分」の人生ではないのではないか。

そして、あくまで自分で考えるというのが重要そうだ。コミュニティに所属はするが「そういう考えもあるよね」と引いて考え、年齢や環境により賛成や意見を変える。あくまで広く、ゆるく、つながることにしている。