田中はゆるく生きたい

新解釈「ボトルネック/米澤穂信」

良い小説というのは時間が経って読むと違う解釈ができたり、違う角度から見ると結末が違うように見える。今回取り上げる「ボトルネック/米澤穂信」も例に漏れず良い小説だと思う。基本的な感想や考察は大体がネガティブなイメージで語られることが多い。しかし、走り書きにはなるが今思っている「ボトルネック」の解釈は全く持って違った。以下現時点での自分なりの解釈である。

僕が恋したのは僕の鏡像だ
僕の思いはそもそも恋ですらなかった
それはねじくれてゆがんだ自己愛だった

主人公はノゾミを好きなったはずなのだがそれはそれは自分を真似したノゾミだった。パラレルワールドの先ではノゾミがサキの性格を真似しているように鏡像だったのだ。そのことに失望し自分自身を愛していたのではないかと思うシーンである。しかし、一つ疑問が生じる。なぜ元の世界のノゾミはそこに気づかせるために主人公をパラレルワールドに送ったのか。以下解釈である。

まず僕は主人公が東尋坊に投げ入れた白い花はスイセンかもしれないと思った。そしてそのスイセンの花言葉は「自己愛、うぬぼれ」だ。神話のナルキッソスは池の水に映る自分の容姿に恋して水に抱きつき池に落ちて死んだ。この語源は「ナルシスト」の語源になっている。この時点で東尋坊に主人公が落ちて死んでしまうのではないかという予想ができる。

ここまでの推理が出来たのであれば最後の「イチョウを思い出して」という言葉にもヒントが隠されているのではないか。ナルキッソスの花言葉は「自己愛、うぬぼれ」だったがイチョウの花言葉は「荘厳、長寿、鎮魂」。古くからイチョウを切らずに思い出に浸っていたおばあちゃんは何かを鎮魂していたのではないか。小説の中で「死んだ爺さんの思い出がどうと聞いてたけど」とあるので筋は通る。

最後に大前提をひっくり返すようで悪いが2度目に戻ってきた東尋坊もパラレルワールドの可能性がある。なぜなら死んでいるはずのツユが電話をかけてくるのはサキが生きている世界でも元の世界でもありえない。そうすると最後のメッセージだって特に気にする必要はない。違う世界で母親から小言を言われてもそれはパラレルワールドなのでどうでもいいはず。どちらかというとこっちの世界でも干渉してくるのか、という笑いになる。

そして以下のセリフは実は主人公に対するセリフではなく読者自身へのセリフではないのか。

聞いて。思考に限界はない。キミにだって。-想像して!あの娘が本当に望んでいるのは何?

自己愛で嵐が過ぎ去るのをただ待つ人生も良いが亡くなった人に向き合って鎮魂したほうが良い。死者をうらやむな。2年も経って弔いに来る主人公へのメッセージが聞こえる。だからパラレルワールドのサキは東尋坊に来た回数が2回目だと聞いて驚くのだ。

僕は真のボトルネックは”主人公の存在”ではなく”読者の想像力”だと思っている。