田中はゆるくいきたい

3000年前にソクラテスは「耳障りの良いことを言うやつはクソ」って言ってる

ソクラテスの対話をプラトンがまとめた「ゴルギアス」を読んだ。哲学書を読むと必ずと言っていいほど行き当たるのがソクラテスだ。名前だけでも聞いたことがある人が多いと思うが実際、対話形式の本で見てみると結構しんどいことをやっている。何がしんどいかと言うと対話相手に「僕は真理を追究したいんだ」と言いつつ、他人の矛盾点を探すという行為をするのだ。良く言えば論点整理であって短絡的な考えを熟考して修正するというデカルトのすべてを疑う行為にも通ずるところはある。

悪く言えばねちっこい議論である。喧嘩とか言い合いは第三者から見れば面白いようにソクラテスが誰彼かまわず議論する様は結構面白い。ただ、頭の良いこの人がやっているから面白いのであって現代でこれをやったらマジで嫌われるし、某掲示板の管理人に影響を受けた精神年齢の低い人と思われるので注意したほうがいい。ここからは「ゴルギアス」の中身をまとめていく。

人を説得すること自体が悪

まず初めに有名な弁論家でありソフィスト(教育者)であるゴルギアスに対してソクラテスがしつこく議論を仕掛ける。ちなみに弁論家というのはネゴシエーター(交渉人)みたいなもんだと思えばいい。この時代だと戦争や国家間の取り決めの時に使節として他国に行ったり、持ち前の話術で民衆を扇動したりする。その人に向かってあろうことかソクラテスは「弁論術は劣悪で醜い」と切り捨ててしまう。

これはどういうことか。まず弁論術が長けている者は善い人間とは限らないので悪事を働くことがある。民衆の前で民衆の耳障りの良い、反応がもらえそうなことを言うことだってその気になればできてしまう。悪い人間のの弁護をするときも同じだ。その弁論術で悪い人間を逃がしてやることだってできる。すなわちソクラテスにとって弁論術とは劣悪で醜いものなのだ。この論理展開の根底には「不正なことを行っている人間は不幸であり、不正を行ったにもかかわらず裁かれない人間はもっと不幸である」という考えがある。

ゴルギアスは当初「弁論術を学んだ者は不正を働かないように望む」と主張してしまった。そのため、ソクラテスによって「弁論術で不正を働く場合もある」と看破されてしまった。ここらへんのいざこざは細かいところなので興味がある人は読んでほしい。

僕はこれでゴルギアスがソクラテスに看破された、というのはちょっとかわいそうだと最初思った。真面目にこれを考えるのなら「不正を働かないように望む」が結果として「不正である」という状態は存在すると思う。ただ、ソクラテスが言いたいことはそれとはちょっと違っていて弁論術自体の善悪を問うているのだと今は理解している。つまり弁論術は物事の本質ではなく、自分の立場や利害関係を念頭に置きながら言い方次第で人の行動を変えてしまう「迎合」でしかない、だから悪であると。

実利主義に一石を投じる

前述の、弁論術が悪だとしたらこの本の解説でも言っているように現代のメディアは大抵悪であると結論することもできる。実際、「詩を作ることや演劇をすることも大衆演説であり快楽であり迎合である」とソクラテスは言っている。端的に言うと快楽=悪=迎合である。

当然の疑問としてソクラテスが長々と講釈を垂れているのは悪ではないのかと疑問ができるがそれは明確に否定できる。ソクラテスの話は聞いてる人の機嫌を取るためにやっていることでもなく、弁論術や詩のように快楽を提供しているわけではないからである。

それもこれも何を伝えたいのかと言えばこの時代の背景がある。人間の価値というのはこの頃から有能であること・有力であること・世俗的な成功が全てであったと解説にある。ここらへんは「セネカ/人生の短さについて」でも善と欲望については触れられている。つまり、欲望を満たすこと自体で人生を使うのではなくそれが善なのかどうかで人生の時間を使うをべきだとだと。

とにかくこの時代からは実利主義であり快楽があることは善であり欲望を満たすことこそが幸福であるという世間の風潮があったらしい。そこに一石を投じる狙いがあると思われる。プラトンはソクラテスこそ一人の市民として哲学的対話を通じてより善い人間の教育に携わっていると考えた。自分の成功しか考えてない民衆とその民衆に迎合する政治家と決別することによりソクラテスは誰よりも善い仕事をしているのだ、という主張したかったのだ。