僕たちは健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会を作るロボットでしかないのか

2021年10月22日

昔から、SNSの話題や知り合いとの話で何気なくよく出てくるワードがある。それは「普通だ」「自業自得だ」「仕方がない」というワードだ。これらのワードをいろんな人がなんとなく使っていると思う。しかし、これはすごい重大なことのように僕には思える。それは「ルール・秩序などの大きなものに対して、資本主義・民主主義のような権威があるものに対して仕方がない、普通はそうする、自業自得だと言う人間」が、かなりこの時代の社会に存在することの証明だと思っているからだ。特にルールをそのまま実行する人間は沢山存在するのだがそのルール自体がおかしいんじゃない?合わないんじゃない?と思う人間がかなり少ないように思える。

僕が最近読んだ「健康的で清潔で道徳的な秩序ある世界の不自由さについて/熊代亨」はこういった社会全体の雰囲気というか違和感を捉えている本だ。今日はその本についてのテーマを交えて話そうと思う。

僕たちは自由を追求した結果、不自由になった

そもそも僕たちは自由のために戦ってきたはずだった。資本主義だってそうだし、民主主義だってそうだ。細かいところまで見たら表現の自由だってそうだし、職業選択の自由、プライベート空間の確保だってそうだ。しかし、どこで間違ったか、それが行き過ぎてしまったのか、自由を追求してたはずが全員にとって不自由な世界を作ることになっているのではないか。

例えば労働。資本主義においてはまずお金がないと生活がしていけない。そうなるとどうなるかというと大抵の人間は労働をしてお金を稼ぐはずだ。他の方法でもお金を稼げないこともないが、大抵の人間はある程度の教育が施され、それをもとにお金を稼ぐ手段として労働が確実に再現可能な方法として浮かび上がってくる。そのように資本主義であればあるほど労働の立ち位置というのは絶対に外すことの出来ないものになるのだが、社会の要求値が上がれば上がるほどその労働さえこなしづらいものになってしまう。

労働での要求の1つにコミュニケーションがある。このコミュニケーション能力が足りないほど労働として活躍の場が制限され、そういった人間が社会の日常から目につきにくい場所に追いやられているのではないかと著者は言う。僕たちが買い物をし、サービスを受けるときに相手をしてくれる店員は、愛想がいいし受け答えもしっかりしている。それが普通だろうと考える人間もいるだろうがそういう人間が選抜されて職に就いているし、海外だと必ずしも愛想がいいわけではないのだ。このように接客業を一つとっても最低限のコミュニケーション能力が必要とされるし、もしこれ以上要求値が上がったら、もっと愛想の良い人間や行き過ぎたサービスを当然だと思う人間が選ばれ職に就くことだってあり得る。

例として接客業をあげたが別の業種だってそうだ。その仕事のために特定の知識技術を会得しなければならないし、会社の都合によって仕事量や質が決まり、残業や休日出勤につながっている。それが「普通、仕方ない、自業自得」と言われる社会になっている。この社会はこう言うのだ。そういった仕事ができない人間は「普通」ではないし、そういう会社に入ったのは「自業自得」で、そういった仕事ができないのであれば貧困層や社会復帰が困難になっても「仕方ない」と。その言葉を使う原因は自分も我慢しているからか、もしくは幸いなことに自分はそういった人生を歩んでいないかのどちらかだと思うのだが。

今の社会に違和感を感じる側の人間の生き方

社会が自由を求めて不自由になった、ということはわかった。しかし、この社会を不自由だ、生きづらいと思っている人間はどう生きればよいか、という問題は依然として残るように思える。現実問題、仕事で障害や病気を抱えている人間は採用・評価に関わることだし、そうでなくっても生きづらい、息苦しいと思いながら生活している人間はいるのではないか。そういった人間はどうやって生きていけばいいのか。ここで著者は芥川龍之介の言葉を引用している。

「最も賢い処世術は社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をすることである」

芥川龍之介

通念、習慣、秩序という長年形成されたものに抗うことはかなり今のご時世難しいことだ。普通に生活を営んでいても都市部で間違い、変な挙動、大声を出しただけでかなりの人間が視線で訴えてくるだろう。迷惑だ、と自分たちのいつもの生活を侵害しないでくれ、とそういう視線で訴えてくる。急速に清潔で道徳的になった都市部はそういった他人に過敏すぎる人間を生み出した。しかし、それに適用できない人間もいる。そういった社会がどこか変だと思いつつも、表向きはそれに従って生きていくことが出来るのだろうか。

時代や国によって形成された社会的な合意、通念はそれぞれある。それによって生活しやすいと思う人間は多くいると思うし実際、治安やサービスレベルに関していえば日本が他の国よりはいい。それは外国に旅行すれば痛いほどわかる。しかし、それを成し遂げることによって苦痛を感じている人間や違和感を感じている人間がいることをなかなか感じることができなくなってしまった。ルールや秩序に合わせることの出来る人、元から出来ていた人間のみが外の世界で歩いている、仕事しているように思える。

そして、どこまで秩序を適用するのか、どこまで資本主義を適用するのかという議論なしで社会を形成してしまった問題のツケを払わないといけない時が来ていると思う。例えばすべての行動を資本主義のロジックで考えるとお金で可視化可能な人物しか評価できなくなってしまうし、資産価値が上がる行動しかしなくなってしまう。資本主義の考えをそのまま個人のプライベートまで適用するべきでないし、地方自治体や文化の担い手まで広げることはナンセンスだ。資本主義は社会を進歩させた。しかし、だからといって社会のすべてに資本主義を適用すべきでない。

僕たちはお金だけを考えるロボットではない。また、ルール通り動くだけでそれ以上考えることの出来ないロボットでもないはずだ。僕たちは盲信的にルールだけを守るのではなくて「自由を目指すのならどこまで自由にするのか?資本主義はどこまで適用するべきなのか?」それを考えることの出来る人間のはずだ。