田中はゆるく生きたい

完璧ではないが資本主義の不完全性を指摘するマルクス

前回の投稿から引き続き初心者向けマルクスの本「99%のためのマルクス」を読みながら、以前から指摘されてきた資本主義の欠陥とマルクスが何を目指していたかを考察したい。

マルクスを神格化すべきでないが、嘲笑するべきでもない

この本にも書いてるが、僕は決してマルクスを神格化するべきではなく、社会主義や共産主義が資本主義より良い社会形態だと言うつもりもない。言いたいことは過去の記事からも主張しているが、資本主義によって歪められている人間関係やうまくいっていない社会政策のヒントをマルクスから手に入れようとしている。

歪められている人間関係とは打算に基づく人間関係や仕事によって歪められている個々人の尊厳もある。現在の経済において労働とは、分業である。分業の論理、それに基づいて言われるがまま、完成品とは程遠い部分的な労働だけをしていると人間が労働から疎外されてしまうのは当然だと考える。

「疎外」はマルクスが発見し、言語化した状態として有名なものの一つだ。少し説明をするとお金を得るために労働をしているはずが、自分が労働や資本の為の手段に成り下がっている、という状態のことだ。そこには自分の考えやアイデアが入り込む隙はない。本来、人間とは価値に拠らず、生物として多種多様な考えや個々人の行動欲求を持っているはずだ。しかし、労働という領域に入った瞬間、労働過程や会社、社会の一部として有無を言わさずに労働機械に成り下がった姿が確かにそこにある。

マルクスの時代の「疎外」や厳密な定義とは少し離れているかもしれないが、大雑把な認識として以上が「疎外」の説明である。「99%のマルクス/田上孝一」「大洪水の前に/斎藤幸平」「資本論入門/向坂逸郎」などを読んだだけで分かったような気になっていると思われるのは恐縮だが、現代の「疎外」の定義から大きく外れていることはないだろう。

話を戻すと、こうした「疎外」というマルクスの考えをひとつピックアップしても、それほど現代の問題とはかけ離れているわけでもないと思うのである。だから、マルクスがすべて正しいと主張するわけではないが、現代でも通じる問題提起が中にはあると僕は感じる。

マルクスが危険思想だと誤解される理由

マルクスは確かに社会主義思想を深め、晩年それが共産主義の考えとして広がった人間として知られているが、その思想を社会実装する人間や指導者に利用されたと考える人間は少ない。具体的に言うとソ連や中国をはじめとする自称社会主義・自称共産主義の国々に、あたかも指導者に絶対的権威があるように見せかけるためにマルクスの思想が利用された。

もともとマルクスの社会主義思想は権威主義的な思想や絶対的な政府・指導者を必要とする社会形態を採用していない。この考えによると、一時的に国民の上に立つべき人は労働者の代表であり、半永久的に指導や政策立法をする人ではない。ソ連のように計画経済を策定する人間たちではないし、中国の指導部のように鶴の一声で特定の産業・ジャンルが潰されてしまう政治形態でもない。ソ連の指導部や中国の指導部はマルクスの想定していた労働者のデレゲート(代表者)ではない。

そして、残念ながらソ連や中国以外の日本や各国における共産党も、労働者のデレゲートではないのでマルクスの理論を持ち込んで自分たちの理論は正しいのだと言うこと自体が空疎である。マルクスは正しかったのだ、と言うこと自体が危険思想なのであれば、共産党という名前を拝借しつつ、実態は労働者の代表ではない政党も同じぐらい危険だと感じる。

きっかけにはなるがそれ自体が正しいのではない

このように何百年前のマルクスでも、現代の問題や解決するべき事柄や人間についての考えを提示している。ここまでで大衆によく理解されていない、自分が誤解してた点として

  • マルクスは危険思想として誤解されている。その思想を利用した人間たちが権威主義に走っているだけ。
  • マルクスには現代でも通じる考えや言語化された状態が多くある。
  • 労働者の考えや境遇を改善するという点から社会を運用する考え

がある。人間は限られた情報だけで何かを判断してしまう生き物なので、仕方ない面もあると思う。しかし学習が足りな過ぎると、それ自体を誤解した状態で誤解した人間を再生産してしまうので危険である。この機にマルクスの考えをざっと網羅できたのは大きい。ここでまとめた話以外にも「アソシエーション」や「家族原理」などまだまだマルクスの考えで面白く興味深いものは沢山あるのでまだまだ学習を続けていかなければならない。