病的に全てを疑った結果、神は存在すると気づいてしまったデカルト

この前の「哲学原理」に引き続きデカルトの「省察」を読んだ。「哲学原理」は全てのものに懐疑を寄せ、そこから神の存在証明までつなげるという話題が大部分を占めていた印象だった。「哲学原理」の方は解説が丁寧だった分読みやすかったが、こちらの方は解説が短い分かなり読みにくいので手こずった。

「省察」も大部分では似ているがただそれだけではない。解説の要約によるとこの本では「懐疑」「精神と身体の分離」「神は存在する」がメインとなる。デカルトがなぜここまで同じような主題に対して執着したのか少しばかり考察してみる。

全ては真理の探究のために

なぜデカルトはすべてのものを疑ったのか。それはすべてのものを疑うことにより完全な存在を見つけようとしたからだと言える。真ではない、疑える存在というのは完全な存在ではない。今までの哲学者や数学者の定理などを盲目的に信じるのではなく、確実な真理の追及のためにはすべてを疑った方が手っ取り早い。そして、誰がいかなる時も疑えない完全なる存在を見つけることにより、それを手掛かりにそこから生まれた者もその完全な存在者と同じくらいの存在であると言いたかったと推測する。ちなみにここでの完全なる存在は「神」とデカルトは言っているが必ずしも宗教的な「神」の意味を持たない。哲学における完全無欠の真理としての「神」である。

全てはここに集約されていると分かればデカルトの気持ちもわかってくる。デカルトはすべての物質や存在を「懐疑」する。その初期段階として自分の存在を疑ってみると人間には「精神と身体」があることに気づく。身体は感覚によって左右されるし、今の状況が夢の世界であるのか、実際の世界であるのかの判別は身体のみで出来ない。しかし、精神はどうだろう。何かを疑ったり、考えたりする私の精神は疑えない。だから「われ思う故に我あり」なのだ。疑うことのできない真理の一つに「精神」が加わり、それを土台に論理展開をしていくとまた他の真理にたどり着けそうだ、となる。

さて、その疑えない真理に近い「精神」で生み出されたものもまた別の真理なのではないかとデカルトは言う。人間は先天的に「神」を信じている。それは教育と言うよりは生まれつき人間に備わっているのではないか、という点から「神」は存在するとした。それは私の疑うことのできない精神が生み出した観念である。ゆえに「神」は存在する。

ちなみに別の視点からも存在証明は出来る。すべてのものを疑っていたが数学の2+3=5などの明晰なものは疑わなかった。それは夢の世界でも2+3=5というのは疑えないからだ。しかし、神がそれを真であるかのように私に思わせるのであればそれすらも疑えることになる。そこから先はすべてのものを疑うことになるがそれは逆に私を欺く神の存在証明にもつながる。

デカルトは「神」の存在をかなり評価しており、「私」という存在を維持しているのも「神」のおかげだとした。この論は面白く、何かの存在の維持には完全者の力が必要で具体的に言うと人間の私の維持には「神」が必要だとした。

精神と身体がテーマの創作物

こういった本を読んでどうなるんだと思う人もいるかもしれないが、こういった考えが意外と創作物の元ネタになることも多い。例えば押井守の攻殻機動隊なんかはまさにデカルトの「精神と身体」の問題を一部テーマに含んでいる。

もし、人間の身体のパーツをすべて機械化したらそれは人間と言えるのか?言えないとしたらどこの部分を機械化したら人間とは言えないのか?そして、考えることができれば本当にそれは人間である証明なのか?といったふうにデカルトのテーマを一部含んでいることが分かる。このように軽い哲学の知識があれば今の時代の創作物を読み解くときに役に立つ。そして、それは昔の哲学と似ているが、少し違う新しい問題を提起してくれることに気づくのだ。

追記:「精神と身体」の話でもうひとつ関連したアニメがあったことを忘れていた。それは「まどかマギカ」だ。

このアニメには主人公のマドカがサヤカのソウルジェムを放り投げてしまうシーンがある。そこで初めて魔法少女というものは、精神や人格がソウルジェムに収められていることが発覚する。サヤカはその事実に対し「私は人間ではない、ゾンビだ」と言うがその根本の考えはデカルトに近いものがある。つまり、サヤカが考えているのは「身体が存在している事は人間である条件ではなく、人格や精神が存在している事が人間である条件なのだ」ということだ。このように哲学の視点があれば普段見ているアニメ・ノベル・ゲームなども違った視点で見ることができる。