田中はゆるくいきたい

「言の葉の庭」と感情の繊細さ

新海誠のアニメ映画作品の中に「言の葉の庭」がある。その書籍版をこの間見たので感想を書きたい。

感情の反転

物語終盤、主人公はユキノ先生に“あなたのことが好きかもしれない”と言うのだが数ページ物語を進めると”やっぱりあなたのことが嫌いです”と言う場面がある。セリフだけを追っていると分かりにくい場面だが、実は主人公が普段どう過ごしているか、どういう思いをしながら生きているか、を理解していると分かりやすい場面である。

この主人公は「普通」であることを押し付ける大人に嫌悪感を抱いていると思われる。主人公はバイトをやりながら暮らしていて、生活を支えている。母親はどこかでふらついているし、兄とはつかず離れずという形でお互いに当たり障りのない程度の会話しかしてない。

そのうえで、学校というシステムやそこで学習すること自体が自分の人生に大きな影響を及ぼさないことも何となく理解している。個々人の人生は複雑で多様なはずなのに学校や先生は画一的に「普通」を求める。それは主人公にとって重要ではない。なぜなら、母親は世間一般でいう「普通」ではないし、自分自身「普通」の学生生活をしなくても自分が少なからず家事やバイトで家庭を支えていることのほうが重要な現実だからだ。

しかし、公園で一人の大人に出会う。その大人は朝からビールを飲み、チョコレートを食べる。そういった「普通ではない」人物と出会い、会話を重ねて自分のことを理解できる身内以外の大人と出会う。物語が進んでいくと前述したシーンに突き当たる。そこでは

「俺、ユキノさんのことが好きなんだと思う」「ユキノさんじゃなくて先生でしょ」

というやり取りが生じる。主人公はここで怒りのあまりに感情が引いてしまった。自分を理解してくれた「普通ではない」大人がここにきて「普通」ぶることに怒りを感じてもしょうがない。答えられない、答えたくないことは「普通」ぶって守りに入る。それは今まで嫌悪してきた大人たちの常套手段だ。だから

そうか、あんたもそれになりはてるのか。そんな方法で防御を張るのか。がっかりだ。

につながるのだ。

主人公に設定された矛盾点

前述したが、主人公は高校に通っている少年で先生や大人たちに嫌悪感を抱いているように思える。これは「天気の子」でも説明したような「キャッチャーインザライ」的な文脈もあると感じる。

しかし、この主人公には明確な矛盾点がある。それは自分がウェイターとしてバイトをしてその場、その職場に合わせた言葉遣いや立ち振る舞いをしてお金を得ているにも関わらず、大人や先生という立場の人間にはそれを許していない、ということだ。主人公の思っていることは確かにもっともだ。

自分のことは何も話さないくせに人の話ばかり聞きだして・・・

という言葉にもそれが表れている。

先生という立場上、生徒に教育をするのが仕事である。それは自分が思っていても、思っていなくても言うべきことがあって、言わないほうがいいことがあるという教育的指導も含めてだ。その時に本当は自分がどう思っているかの考えや個性ではなく、どう生徒に言うべきか、という問題になってしまう。飲食店でバイトをしている主人公も自分の感情や個性を出さずに仕事をしているはずで、それを棚に上げて先生という立場の人間が悪いのだ、と半ば憎しみをもって接するのは矛盾しているのではないかと感じる。

ただ、この矛盾点を秘めながらも人の悪いところを指摘するときだけ感情的になる様子が高校生というキャラクター設定に合っている、というのも事実だ。「言の葉の庭」はそういう矛盾点を抱えた人間が言葉や行動の入れ違いを感じつつ最後に感情を爆発させてしまう不器用な物語だ。

最後に今回、書籍を見て感じたことを一つ付け加える。これは映画の話なのだがこういった作品を映像ですべて表現するのは難しい。制作側が大切にしているモノと視聴者側が期待しているモノにギャップが少なからずある。根本的なメッセージ性に適切な音楽と映像を載せることができなければ作品としてちぐはぐなものになってしまう、という例になっていると感じる。