田中はゆるくいきたい

この世界に絶対的な時間は存在しないのか

僕はどちらかと言えば文系的な人間で特に化学や物理学の方面にはめっぽう疎い。ただ、文系的な人間でも昔から、ハイデガーやマルクスガブリエルなど哲学方面から時間や世界の説明を行おうとしたものはいる。どちらが正しいというのではなく、どちらも正しいのではないかと思わせてくれるのが「時間は存在しない」という本だった。

時間は相対的である

経済における通貨が相対的な価値でしかないように時間も相対的でしかないようだ。現に1ドル=120円、という表記をするときにはそれは日本円を使っている人間がドルを相対評価しているに過ぎない。同じようにスピードが異なる場所や高度が異なる場所において時間と言うものは相対的になる。

ここから言えることは、自分たちが絶対的と思っている時間は前提条件が一定である場所から、前提条件が異なる場所を相対評価しているに過ぎない。だから、(絶対的な)時間は存在しない、時間は相対的である、と言えるだろう。

天気が良い夜空を見上げてみると星が見える。そこで輝いている星は現時点の星の状態を指し示すものではなく、過去の星の状態を見ている。なぜそうなるか。光の速度にも限界はあり、その光速を以てしても見えるのに時間がかかるからだ。同じように、目の前の友人が笑っている姿を見たとしよう。その笑っている友人の姿は数ナノ秒前の限りなく0に近い過去なのである。

上記から、時間は相対的であり、光の速度をもってしてもそれは覆せない。さらに言うと宇宙全ての空間で絶対的な時間が流れているわけではない。

マルクスガブリエル的な文脈

マルクスガブリエルという最近流行の哲学者がいるが、その人が出している一冊の本の名前が「なぜ世界は存在しないのか」というものだった。これは今回読んだ「時間は存在しない」というタイトルとひどく似通っていて、内容も似ているように思えた。

特にこの本における「時間は自分が存在している場所や高度・速度において可変する」という文脈はマルクスガブリエルにおける「場によって物事の真実や捉えかたが異なる」と通ずるものがある。その文章を見た瞬間、人生を通して何かを研究している人間はジャンルは違えど共通する心理に近づくのではないかと思える瞬間だった。

自分の視点、あるいは人間の視点が絶対的ではない、と理解できる人間はこの本の内容やマルクスガブリエルの本も理解できると思う。これらの本を読めば、人間や自分は、今日までたまたま生きている存在でしかなく、ちっぽけで前提条件が絡み合った状態の人間視点で、なんとか世界や宇宙を説明・記述しようとしているに過ぎないことが分かる。