田中はゆるくいきたい

現代社会は他人を受け止めることをやめてしまったのだろうか

現代社会は自業自得という言葉が使われたり、無意識化において意思とそれに対する結果を責任という形で結びつけられた社会である。それは会社や国の運営としては大変分かりやすいかもしれないが、それは貧しい考えにも見える。そうした考えを、今回は「利他とは何か」を参考にしながらまとめていきたい。

数字やルールで人間を管理する限界

効率化や自動化が叫ばれる現代では、仕事や社会問題を数字やルールで縛ることが第一優先のように振舞われる。しかし、それには弊害もある。

有名な話だが、イスラエルの託児所の実例がある。その託児所では午後4時に閉園時間を設定していたが、その時間に遅れる保護者がいたために罰金を課すようにルールを変えた。あなただったらこのルール設定にどう反応するだろうか?結果は「遅刻する保護者が2倍に増えた」である。

この例からは色々な人間の心理を知ることができる。具体的な気持ちとして、数字で縛られたくない、時間とお金とトレードオフできるのだ、遅刻を正当化するためにはお金さえ払えばいいのだ、など様々な感情があって遅刻する保護者が増えたのであろうと予測できる。

こうした個々人の境遇や考えが違う人間を数字やルールで一括して管理しようとする時点で無理がある。もちろん、それが最低限のルールでそれを守ればお互いにメリットがある場合はうまくいくかもしれない。しかし、そこの組織や社会に所属している人間を信頼せず、ただ罰則を強化したり、数字で管理することは悪影響があると予測できる。

そういう数字やルールで管理することを突き詰めていけば、最悪の場合、管理社会や独裁に近い形になってしまう。本来、資本主義や民主主義は自由を求めて戦ってきたのではないかと感じる身としてはこれには反対だ。

曖昧さと受け身が解決する

人間はわかりやすいものを聞いたり、評価するのが大好きである。今はこれが流行っている、あの有名人がこういう主張をしている、あいつの給料は○○万円だ~、などなど。そういった考えや会話に汚染されていくと分かりやすいものでしか他人や現象を受け止められない人間になる。

前述した数字やルールで善人と悪人を分ける作業がまさにそれである。個々人の状態や考えも聞かず一方的にルールを作り上げ、それを守らない人間は罰金を課す。そういったコミュニケーション無しで他人の気持ちを考えないシステムを増やせば増やすほど人間は「言われたことしかやらない、ルールだけを守るロボットなおかつ、分かりやすい表面上の情報で判断する評論家の下位互換」に劣化してしまう。

そうならないためにも人間として基本的な行動をしなければならない。具体的には、話を聞く、相手の気持ちを読み解く、想像する、といったポジティブな意味での受け身の姿勢だ。その次に判断をしない・評価をしない、という曖昧性も意図的に含んだほうがいい。

プライベートで話を聞いているときに、表面上の情報だけで判断をするビジネスごっこをする必要はない。すぐに判断をしなければいけない場面では無理かもしれないが、時間が解決することや共感することだけが求められている場合もある。その使い分けができないのであれば、それはもはや人間ではなく数字や情報だけで判断するプログラムを埋め込まれたロボットでしかない。

「利他とはなにか」で共通したこと

「利他とはなにか」では様々な方が文章を持ち寄って本が成り立っていることがわかる。そして、そこでは共通した結論に落ち着いていると感じた。それは「不確かな、不明確な物事、未来に対して、我々は受け止めて試行錯誤せざるを得ない」ということだ。あとがきではそれを人間が「うつわ」になること、と表現しているが自分の表現も遠からずも近からずだろう。

「うつわ」という表現は言いえて妙だと思う。ポジティブな意味で相手の話や行動を受け止めるという意味にもなるし、経験や知識を貯める容器であるともとれる。どちらにしろ、その考えで相手の話や境遇も聞かずに、数字やルールで一括して相手を判断することの限界は知ることができる。僕も相手の話を聞くことができる人間、それを読解して想像できる人間でありたいと感じる本だった。