田中はゆるくいきたい

ルックバックと悪とマイノリティについて

カルチャー

作品として、フィクションとして、よかった

僕と同じ秋田の出身ということで雑に応援している。あの山とか田んぼしかないところから生まれてよくこういう作品が生み出せるもんだなって。彼は秋田の良い日本酒の飲みすぎでやばい作品しか書けなくなってしまったんだろうか。最近聞いたところによると、チェンソーマンが流行ってから秋田の人間が夜に見る悪夢はチェンソーマンかナマハゲが多いらしい。そういう意味で影響力はある。

小学生とか中学生のころからバトルマンガを読んでいてそれで今はそういったジャンルに飽きてしまった僕でもチェンソーマンは見てた。すがすがしいバトルマンガではないけどしょぼい小さな存在として何を目指すのかがよく描けてた気がするし、そこの繊細さっていうのはルックバックでもそれは健在だった。紛れもなく作品として、フィクションとしてよかったなと思った。

小学生である周りの反応とかマイノリティでいることの苦しさとかそこら辺の描写も繊細だし、主人公の年齢っぽさが出ている。その空気感自体、そのまま大切に保存してタイムマシンに入れたくなるほどだ。藤野が京本の前で強がって「漫画の賞に出す話を考えてて…」と強がるところも本当に愛おしい。大人になった藤野と京本は二人で漫画を描き続けるけども京本が大学に行くことを決心。残念ながら、そこで事件は起きる。京本は精神疾患と思われる男に無差別殺傷事件に巻き込まれて亡くなってしまうのだ。

コンテンツで特定の人間を悪にする落とし穴

フィクションで作品なんだけど周りから突っ込みが入る点がある。それは統合失調症とか精神疾患を持っていると思われる男が加害者側として描かれてる点。確かに「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」という描写から逆算すると精神疾患であるということは自ずと浮かんでくる。”ステレオタイプな精神疾患=犯罪者予備軍に仕立て上げてしまっている”という指摘はもちろんわかるんだけど僕はそう読めなかったんだよね。なぜならこの作品はフィクションで僕がそういった精神疾患を患ったことがないことから。でも、自分がそういう精神疾患を持っていたり、そういった患者と接する医療関係者だったらこの作品がフィクションであっても”痛い”のは理解できる。

結局、絶対悪として特定の人間を書いてしまうこと自体が価値観として古くて、マジョリティ特有の考えかもしれない。表現する作品や作者を見て”あーマジョリティ側に行っちゃったんだ・・・”って悲しくなることはよくある。漫画とか小説は僕自身、マジョリティよりもマイノリティの人間を救ってほしい感じはどこかで期待している。ちょっと偏った見方をあえて言うとルックバックは”他に楽しいことがあったのに漫画を書き続けた人間”というマイノリティは救ったのに”精神疾患の人間”というマイノリティは救わなかったんだ・・・と思ってしまうのもわかる。

少し話を変える。僕は東北の秋田出身なんだけどテレビメディアがあまり好きではない。東北大震災の時に今が稼ぎ時だと言わんばかりにごぞって東京からテレビ局が来て、避難所や立ち往生している人たちにインタビューしていたのが原因だ。人の不幸をエンターテイメントや金儲けの道具にしているのを見るのが好きではない。24時間テレビの障碍者特集も感動ポルノと揶揄されるように好きではない。だから”身体障碍者や人の不幸をコンテンツとして消費する既存メディアと視聴者”と”精神疾患の人間を絶対悪として漫画内で扱ったルックバックと読者”の違いを明確に説明しろと言われたら僕も沈黙せざるおえない。藤本タツキもそういうつもりで書いたわけではないはずだが違う人生を歩んできたマイノリティの読者が”痛い”と言っていたらそれは真なんだろうなと思う。