村上春樹とボカロと少女終末旅行

2021年10月13日

最近、村上春樹の作品のことを考えている。僕が初めて村上春樹の作品に出会ったのは高校時代だった。その時から本を読む習慣がついていた僕は、一気に村上春樹に魅了されていった。もちろん高校の図書館にあった当時の最新刊までは全部読んだ。正直話すと、当時の印象と言えば「よくわからない」というのが正直の印象だった。時間が経ち、今振り返るといい作品だったように思える。やはりいい作品というのはどんなに時代が進んでもいい作品だし自分の年齢によって違う面を見せてくれる。ここからは村上作品の特徴を軽く語る。

村上春樹のストーリーでは何かが失われたり何かを手に入れたりするのだが結局ストーリー全体としては何も得ていないように思える。例えば孤独を抱える主人公がBarで会った女性とセックスすることになったり、友達と充実した日々を送るのにも関わらずどこか孤独を抱えているような描写があったり一言では言えない感情がある。いきなり夢の描写があったかと思うと現実世界のその人は死んでいたり失踪していたりする。

こんなストーリー展開は唐突だと思うかもしれないし、理不尽だと思うかもかもしれない。それだけでなく、主人公や周りのキャラクターはその出来事をどこか淡々として受け止めている。たまによく分からない動物が主人公にいきなり話しかけたりアドバイスをしたりする。それが村上春樹の作品の良さだし何歳になっても読みたくなる不思議なところだ。ただ、今回言いたいのそこだけじゃない。

曖昧なフレーズと伝えたいこと

僕が最近村上作品のことを思い出す理由がアニメや音楽でそういう傾向の作品を見る機会があるからだ。曖昧な表現、夢世界、リアルなんだけどそれ自体がメタファーであるとか。例を出すと最近見た「少女終末旅行」

幼い主人公二人が戦争のあと旅をするストーリー。登場人物は感情が薄くなんとなく虚ろだ。作品中で世界が終わると宣言されるが主人公たちは「どうでもいいことだろう」と取り合わない。多分、この作品ではもし目指す先に何もなかったとしても「そんなもんか」と淡々と受け止められるだろう。

話は変わり最近の音楽の話をする。インターネットでは日々、MVや音楽で才能を表現する人々であふれている。その中でも具体例を出すとado、YOASOBI、ずっと真夜中だったらいいのに、ヨルシカなど。こういった音楽に曖昧なフレーズとメタファーは付き物だ。曖昧さとメタファーの強烈なインパクトを高校時代で覚えた僕はそれらの音楽をを村上春樹っぽさがあると表現せざる負えない。

そしてこの音楽の始まりは初音ミクだと思っている。初音ミクの時代は「メルト」「ワールドイズマイン」など分かりやすい曲あるいはその設定になりきった曲が流行ったしそれに対して違和感はなかった。そのあと曖昧さやメタファーを使った歌詞や音楽で勝負する曲が流行った。この時点から曖昧なフレーズ自体に価値があると思い込んだ厨二病層とそれらを経験的に感覚的あるいは論理的に価値があると見抜けた層で見え方と作品のつくり方に差が出たと感じた。

もちろん部分的に曖昧あるいは意味不明な単語を入れているのだけど全体としてはストーリーが通っている作品はちゃんとある。ただ、その雰囲気にだけに酔っているタイプも多い。現在の音楽が「雰囲気に酔っただけの一時的に流行した厨二病作品」という評価に終わる作品が少ないことを祈る。ただ、それが単なる流行で終わるのかは僕の評価ではなく時代の評価に堪えられるかどうかだろう。そして、それらに伝えたいことがちゃんとあるか、そこに尽きる。

伝えたいことを一言で言えば人生

何かを目指していたのに手に入れたものはそんなに良くなかった、何もなかったというストーリーは少女終末旅行と村上春樹は似ている。曖昧なフレーズを入れて曲として出すボカロや最近のネットの音楽はすべてはメタファーとする村上春樹の小説と似ている。どこか淡々と物語が進みこんなもんだよな、と落胆もせず過度な期待もせず明日が来る。一見意味不明な単語やエピソードの羅列のように見えるが終わってみると一貫性があったりする。これを一言で表すと人生である。こう考えると、ファンタジーに見えるコンテンツが現実のメタファーになっていたと知ったとき意外と悪くないかもなと思う。