残された人間と残す人間の物語、ナルキッソス2の感想

 

いや泣いた。ナルキッソス1も2もマジですごい。最近、AIと人間の共存やら終末世界やら割と複雑なストーリーばかりを見ていたので心が洗われるというかシンプルゆえの奥深いストーリーの良さを再認識した。心が痛くなるようなストーリーなのだが自分が求めているものがここにあった。何年か経ってからまたやりたい名作。ストーリーの時系列としてはナルキッソス1のセツミと主人公の話の前なのでナルキッソス1をやった感想を見てからのほうがスムーズに理解できると思う。

エセカトリックはキリストの夢を見るか?

この話は自称エセカトリックの姫子、その妹千尋、そしてセツミで構成されてる。エセカトリックと自称している姫子も元々敬虔なクリスチャンでありキリスト教をすべて信じているわけではないがすべての人間に愛を与える(慈悲)という考えに賛同している。

ただ元、ということは今はクリスチャンではない。キリスト系の病院でヘルパーとして活動していた姫子はその時の身寄りのない子供の世話をして自分の無力さを痛いほど痛感する。その身寄りのいない子供を世話するところはよりにも病院の7Fなのだ。その病院の7Fと言えばすでに死ぬことが決定されている難病の患者だけが生活する場所だ。

7Fの患者のある言い伝えを聞いた子供は途端に食べ物を食べなくなり姫子にも距離を置くようになる。そしてとても仲が良かった身寄りのない幼い患者は亡くなってしまった。その患者は7歳だった。姫子は思う、神はいないのか、自分が神だったらこの子供を救うのに。それとも7年も生きたのだからいいだろう、とでも神は言うのだろうか。姫子はそれから神を信じなくなりエセカトリックを名乗る。

フランダースの犬で幸せだったのは誰?

この作品はこの世を去ってしまう者と残される者という対比でも見ることができる。それを比喩して、”フランダースの犬で幸せだったのは誰だったのか”と問われる場面が存在する。どう思うだろうか。死んだ者ネロ、一緒に死んだ者パトラッシュ、残された者アロア。誰が幸せだったのか。

その問いをした上で姫子は”自分の痛みには耐えられるが他人の痛みには耐えられない”と言う。自分が死ぬことには耐えられるが死ぬことによって残された周りの人間の痛みには耐えられないのだ。だから身内の人間に冷たくし友達を作らない、という7Fの言い伝えを守っていた。かつて自分の担当した7歳の患者がそれを守ったように。

なぜセツミは人生最後の一瞬まで笑っていたか

ナルキッソス1でセツミは主人公と逃避行をする。この行動の原因はナツミが姫子から託されたワンピースではなく地図を選んだことだ。それは生きてる間だけでも周りの人間を喜ばせるのではなく死に場所を自ら選ぶネロになるということだった。そして現状に満足することなく死に場所を選び神様に文句を言う。姫子の願いは私が死んで心を痛める人がいなくなるように、ということだった。もしこの願いが叶えられないのであれば今度はセツミが神様に文句を言ってほしいと頼む。それが地図だった。そしてその目的地でセツミは笑った。これはなぜか。このストーリーが進むにつれ7Fのルールには後から決まりごとが追加されていく。7Fの人間にはいろいろな言い伝えが課されていた。

  • 死にたいなら食べ物を食べないほうがいい
  • 3回入院したら死ぬことを覚悟しろ
  • 逃げたいときはA駅ではなくB駅に行け

「友達を作ってはいけない」もその言い伝えの一つで姫子の患者や姫子も守っていた。姫子は自分の無力感、セツミと出会ったことに思ったことがあり最後のルールを追加する。それが「残すものには笑ってあげて」。せめて残されたアロアのために。それは主人公とセツミのナルキッソス1でも受け継がれてる。