田中はゆるくいきたい

押井守はGhost in the shellで何を描いたのか

カルチャー

自分が面白いなと思う映画監督の一人に押井守がいる。あの人は哲学的だと称される通り、人間や社会に対して批判的な態度を取るしそれが攻殻機動隊の映画にも表れている。その話を今日はしたい。

世界・システムに対する没個性な人間

押井守の攻殻機動隊ではとにかく機械と人間の立場を描きがちだと思う。それがいいところではあるが逆に言えば組織論や国家論もやっている攻殻機動隊のテレビシリーズとは距離を置いているとも言える。そこをもっと見たい人にとっては肩透かしになりそうだが「世界・システムに対する人間」を見たい人たちにとっては大好物だろう。とにかく、常に押井守の攻殻機動隊は人間がどういう立ち位置を取ればいいのかを葛藤・悩む姿を深かく堀り下げている。

この映画は街の様子を描いたシーンが多い。建物の合間から見える飛行機、街の中を移動する遊覧船、発達した高い建物と雑然とした住居、市場の乱雑さや人の往来を常に見せる。そこにキャラクターとその表情を入れることによって何かに悩んでいたり葛藤をしていることを示す。街は変えることのできない一つの世界でありシステムである。その中の小さな個人として無力な存在として「街と個人」を描くことによって「大きいシステム(世界)と小さい私」を描くことに力を注いでいる。

登場キャラクターもなるべく没個性にしていると思う。その手法として感情をあまり前に出さずに仕向けている。戦闘も派手ではない、前置きがなく静かな戦闘が多い。こういった描き方で何を見せたいのか。戦闘自体はメインなのではなく、未来の世界と便利さや効率的に動くネットの広大なシステムそれに対しての無力な個人の戦いを描きたいのだと思った。それはある意味、兵器を使った戦闘よりも大きい戦争である。進みすぎた世界に対して人間は何ができるのだろう?電脳化・義体化した人間とロボット・AIの違いは?映画でそれを描こうと努力し、終着点としてそこへの答えを置く。

義体化・電脳化した私は何か

先ほども語ったが押井守のキャラクターは「人間とは何か?」という問いに苦悩している。特に主人公の草薙素子は自分が電脳化されていて全身義体化されていることで自分の存在自体や意識を疑っている。

人間が人間であるための部品が少なくないように自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なのよ

草薙素子は戦闘でかなり強いし作戦はほとんど成功する。しかし、それは戦闘能力を上げるために体を義体化しているからであり、電脳化で瞬時に情報を摂取するために電脳化しているからである。もちろんそれだけではなく、基礎能力の高さもあると思う。ただ、その仕事で活躍するスキルもハードウェアも「自分は人間なんだろうか?」という問いの前には無力に思える。

私みたいな完全に義体化したサイボーグなら、だれでも考えるわ。もしかしたら本当の自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか。いや、そもそもはじめから私なんてもの存在しなかったんじゃないかって。

電脳の情報で正解の行動が決まり、義体化でそれを戦闘や行動で可能にしてしまう。そこには人間的な人格は存在しているだろうか。周囲からは人間らしく見えるかもしれないがこの大きな世界・システムの中で動かされているひとつの細胞でしかないんじゃないか。もしかして、自分に自由は存在せずに初めから行動が決まっていたのではないか。そう考えてしまうのも無理はない。

電脳の情報と義体化された体によって動かされているように思えた素子。そこに反抗するように人間らしい行動を一つ思いつく。それは自分の直感を信じることだ。電脳化と義体化で人間らしさを失ったと感じた草薙素子は「私のゴーストがささやく」と言い、大きなシステムに対しての反抗や自分の中にまだ人間らしさが残っているのを確認するのだ。