田中はゆるくいきたい

シンデレラグレイを読んでやはりウマ娘というコンテンツはずるいなと思った

カルチャー

シンデレラグレイはもうひとつのウマ娘

僕はバトルマンガやスポーツマンガが好きではない。なぜならそのマンガが長く続けば続くほどキャラクターに特殊能力が付き始めるし、ストーリーがもっと長く続くと主人公や敵の能力のインフレが始まるからだ。そういう点はファンの人間にはいいかもしれないが終わり方も含めて作品だよね、っていう自分には合わない。ただ声を大にして言えるのはその中でもウマ娘は安心してみることができるということだ。一言で言うとウマ娘は特殊能力のないスポーツコンテンツなんだよね。

ウマ娘のゲームもアニメも見てるといい意味でずるいなって思う。だって誰も悪者にならないし、ウマ娘同士も蹴落としあうんじゃなくて自分が一番になりたいと純粋に思ってるんだよね。全員がレースに向かって走ってる。その姿勢が眩しい。というわけでウマ娘にはまった僕はアニメも見たしゲームもやっている。そのはずみでオグリキャップが主人公の「シンデレラグレイ」を読み始めた。これがめちゃくちゃ良かった。

主人公はオグリキャップ。アニメでの出番は腹ペコキャラの無頓着モブみたいな具合。ゲームでも強いキャラとは言い難く、一世を風靡した史実に対してなかなか待遇が厳しい。実際の活躍を見ている人間やそれを聞いたことがある人間はヤキモキしていたに違いない。しかし、そこで終わらないのが馬に対して尊敬と愛が詰まっているウマ娘のスタッフである。マンガ版ウマ娘のシンデレラグレイではオグリキャップが最高にハマっている。その凄さはアニメウマ娘のスペシャルウィーク、トウカイテイオーにも負けないぐらいだ。

とにかくマンガ版のオグリキャップはかっこいいし強い。笠松から有名になっていく過程を描いていくのだがその強さゆえに足を引っ張ろうとするウマ娘もいる。地方にいるウマ娘からしたらオグリキャップは早いし強いからその計画も失敗に終わる。そのいたずらをしようとしたウマ娘の感情は”怖い”だった。だからオグリキャップが落ち込んでいるそのウマ娘に”大丈夫か”と手を差し出しても手を握り返さない。怒りとか恥ずかしさだったらこれは手を弾くシーンなんだけど自分とはレベルが違いすぎてその行動すら出なかった。

ただ、同じ笠松にいたマーチというウマ娘は違う。このウマ娘はレースをした時から一回も負けたことがないんだけどオグリキャップとの2回目のレースで負けてしまう。ここの描写でもオグリキャップは”大丈夫か”と手を差し出すんだけど足を引っ張ろうとするウマ娘とは違って手を繋ぐんだよね。ライバルだから。こういった対照的なシーンとか些細ないたずらから段々とオグリキャップの才能が表現されているのって本当にマンガっぽい。マンガで見たいのはこういう面白さなんだよねって改めて感じた。

ウマ娘はなぜ走るのか

ウマ娘という世界は現実世界と違う。現実世界の競馬はオッズがあり、どの馬が勝ち、どの騎手が強くてどこでウマは育てられてなどウマ以外の利害関係が多くある。レース自体の賞金もあるし、騎手だってそれを手の抜くことのできない仕事としてこなしている。それはそれで面白いんだけどウマ娘の世界は利害関係がない分”走る理由”がぽっかり空いている。だからマンガ、ゲーム、アニメの主人公たちはどうして走るのか何のために走るのかが至上命題になっている。

あるウマ娘は自分のために走る。あるウマ娘は先頭で見える景色を見たいから走る。あるウマ娘はモデルの姿だけではなく走る姿を見てもらいたいから走る。走らされているのではなく、走る。”私はこのために走っているんだ!”という文脈がしっかりとマンガでもアニメでもゲームでも書かれている。そこが悩み、葛藤、尊敬になっていてウマ娘同士の感情変化・成長物語に昇華している。だからウマ娘は美しいし、ドラマが生まれるのだ。ほかのウマ娘が走ってるから、走るのはそうせざるを得ないから、では感情移入なんてできないし感動なんてできない。そんな理由なら走りたいなら走れば?としか思わないし競馬の一つのコンテンツにしかならない。そこをしっかり見極めてそこに対してある一定の答えを出しているということで見ている側も”なるほどな”と思う。

ウマ娘ほどメディアミックスとしてうまくいった例はないと言っても過言ではない。それと同時にウマ娘ほどすべてのメディアでその価値観と”なぜ走るのか?”という至上命題を貫いている作品もないと思う。ゲームもアニメもマンガも最高。そして媒体は違うけど各々のメディアでのストーリーを見ることによってウマ娘の世界観はより立体的に解像度が上がっていくのだ。