絶対的な幸せの基準を持っていない人は幸せを感じにくいのかもしれない

2021年10月16日

 

手段と目的が入れ替わっている

最近、相対的な幸せの基準しか持ってない人は幸せを感じられないのかもしれないと考えるようになった。相対的な幸せとは他人と比べて得られる幸せだと定義する。この時代では、人間誰しも生きていればお金、持っているモノ、地位、学歴など色々他人と比較されるものは多い。それに煩わしさを感じつつも、そこの便利さを享受してそれを持ってない人間に対して優越感を感じる人間が多数だと感じる。別にそれは人間的に普通の感情だと思うし、どうでもいいんだけどそれ自体が目的化してる人間は本当に幸せなのか、と感じつつあるのも僕の正直な感想だ。

お金を稼いで物を買って消費することによって自己表現するのもいいのだがキリがない行動に見えてしまう。実際、僕からするとそういうことをしてもあまり幸せを感じない。他人だから何に幸せを感じるのかは人それぞれだと思っているのだが上記で得られたステータスというのは別の何かを得るための手段でしかないような気がする。これは僕が持たざる者でダウンシフター的な考えを持っているからかもしれない。

内的幸福と比較病

人のステータスというのは外部の人間が比較するときにわかりやすくて大変良いのだがそれで幸福を決めつけるのもなかなか短絡的な思考に思える。今の世界ではSNSとテレビなど全員が見ることができるコンテンツやニュースがあるおかげで自分たちの生活と他の人間の生活を比較することが誰でもできるようになった。特にSNSはこの点においてかなりインパクトがある。例えば、なんとなくSNSを見ていて「同年代の人間が学歴が東大を卒業していて経営コンサルタントをしてかなりの額を稼いでいる」と言われるとそういった地位や学歴が無い若い人ほど動揺しそうではある。

こういった比較をすることもキリがない話なのでSNSやテレビを見る人間の幸福度が下がりやすい、という研究結果が巷では結構言われているのだがこの根本原因って現代の人間たちが一生懸命自分とテレビの中の人間やSNSの中の人間を比較をすることを常にしているからじゃないかと思っている。テレビやSNSが良いところや悪いところを切り貼りした誇張的な情報拡散ツールでしかないと気づけば、そういうことを気にする必要がないということもわかりそうなものだが。

さて、ではどういう行動をとれば人間は真に幸せになれるのだろうか。これはかなり難しい質問だし、全世界の人間、性別、人種を含んで言えることではないと思うが、それに近い答えとして比較不能な内的な幸せを持つことが鍵だと感じる。人間が目指すべきと思っている内的な幸せの一部の例を出すと

・自分が親になり自分の子供の成長が楽しみだ
・誰の目を気にすることもなく趣味に没頭できる
・好きな時間に好きなところへ行ける時間あるいはお金がある

などがある。自分が親になり自分に子供ができるということ自体比較不可能な幸せだし、どんなにその子供を他人の子供と比較しようとも自分の子供だからかわいいはずだ。そこには自分の子供だから何でもする、という比較可能な幸せとは一線を画した幸せがある。そういう他人と比較しない幸せの基準を持っている人は幸せを感じやすいはずだ。「相対的な」の反意語として「内的な」を使ったが「個人的な」と言い換えてもいい。意外と簡単な答えだし、誰でもできそうだが今の人間はすぐにテレビやSNSを真に受けてしまう。そこで起きたブームによって自分の時間を消費してや行動を変えてしまうので長い期間、腰を据えて自分の幸せや自分の個人的にやりたいことに目が向かなくなってきてる。

インターネットや多数のコンテンツが見れるこの時代に比較するな、自分の幸せを見つけろ、と言うのは難しいかもしれないがいったんそれが見つかると他人と比べることなく内的な幸せを見つけた方が生きやすい。もはやここまでくると他人の評価なんてどうでもよくなるし、関係がないと思ってしまうくらいだ。また、僕自身そういった人間を目指していきたい。