田中はゆるくいきたい

「竜とそばかすの姫」は大衆やマイノリティを救うものにはなりえない

カルチャー

この作品のやりたいこともわかるし、伝えたいこともわかる。ただ映像的な視点で見れる人じゃないと100%楽しめないと思うんだよな。この映画に向いてる人は綺麗な映像や印象的な音楽を中心に見たい、それを期待している人だ。僕には向いてない。なぜなら僕は作品を通して作者が何を伝えたいのか、キャラクターがどう成長したのか、感情が変わったのか、に重点を置いてみているからだ。加えて言うとハッピーエンドには犠牲が付き物だと思ってしまう。だから、なんとなくうまくハッピーエンドになってしまう物語が好きではない。

小説でもアニメでも作品を見る時は細かいところはあまり見ないようにしている。例えば、いくらか騒がしい声優の演技だとしても我慢して見る。作品を通して見るんだったらそれ以上の良いところを集中してみたい。というか、細かい悪いところが気になる作品はそれ以上の良いところがあまりなかったともいえる。この作品がそうだ、と言うわけではないが他人の感想を見てみるとそういった指摘はある。

他のサイトやレビューでも多くある指摘を紹介する。特に多かったのは誘拐された子供たちを助けるために高速バスを使うシーンやそれを助ける鈴に対しての周りの大人の行動に問題があるのではないかと言う指摘だ。たしかにフィクションとはいえ、虐待された子供を助けるために高知から東京に高速バスで向かうのはそんなに猶予があるのかと思ってしまうし、子供を救うために周りの人間が鈴だけに行動をさせるのは違和感がある。「こういうストーリーが書きたいから意図的に鈴の周りの大人は動かさない、あるいはシーンをカットする」というのが多かった。そういった違和感のある行動原理が過去の思い出に起因したり、ロジックとして説明されれば多少強引でも納得できるのだけど、それがなかったように思える。

それでも良いところは多くあった。例えば、今のSNSやネットにリンクされるような設定とキャラクター。どこにでもいるような女の子が仮想世界では歌姫と尊敬される存在になっていく。そのストーリー自体はわかりやすく、なぜ歌なのか、音楽なのか、という説明もちゃんと過去の思い出と母親にリンクされている。それがあるから共感し、そのシンデレラストーリーを応援したいと思える。それに対して、妬み嫉みのコメントをする仮想世界の住民も現代のSNSのようだ。そういった責任感がなく悪意のあるコメントや反応が誰かを傷つけているという描写はメッセージ性がある。

最後に鈴が作品の最初から最後まで仮想世界を体験して変わったところの話をする。鈴は歌いたかったという気持ちが歌えた、に変わりその歌が他人に勇気を与えるものになり、その歌がきっかけで竜に出会うことができた。現実世界で出来なかったことが仮想世界でできるようになった。その仮想世界で助けたい人間ができて現実世界での行動に変わる。という流れは控えめに言ってもきれいだ。

この作品の全体的な感想を言うと「難しい」だ。言いたいことはわかるし、見せたいものは見せてもらったと感じる。でもそのメッセージや伝えたいことがばらついてしまっている印象を受けた。ストーリーは一本の筋が通っている。ただ残念ながら、そのストーリーを見せたいがためにやや強引なパワープレイや違和感のあるシーンになってしまっているところもある。この作品自体は前向きだし、優しい。勇気を与えられた人間が他の人間に勇気を与えるものだし、美しいものだと思う。でも心に刺さって抜くことができない毒のようなものがない、そしてハッピーエンドに至るまでの犠牲がない。この作品を映画館で見た後に現実世界に帰った僕はフィクション以上の物を持ち帰ることができなかった。現実世界の僕の考えや物の見方が変わることはなかった。

おとぎ話、フィクションの魔法が解けた

フィクションを使って理想を語る人間が現実世界の問題に首を突っ込んだ作品を作ると途端に歪な作品に感じられてしまう。それは貧困や銃を扱った「天気の子」もそうだし「竜とそばかすの姫」も然りだ。この作品では虐待された人間を出した。この作品内のベルが竜に興味を持ったのはUの世界で強く目立っていたからではないか、と感じてしまった。そして、鈴が恵を救おうとしたのは虐待されているからだ。これがもし仮想世界で目立つ存在でなければ現実世界でマイノリティであったりや苦しい思いをしていても救わなかったのではないだろうかと思ってしまった。この映画は、何の特技もない目立ちもしない大衆を救う物語ではないと感じる。なんとなくうまくいった物語に見えるし、最初から才能がある人間が才能のない大衆に対して綺麗ごとを呼び掛けてくる物語に見えてくる。

こういった否定的な意見にさらされやすい作品というのは特徴がある。それは設定が現実に近いということだ。否定されにくい作品は異世界、SFなどにして今の現実世界とは離れた世界にするのが定石だと言える。

それかあるいは、「現実世界なんだけど魔法少女が活躍する物語」みたいに現実ではありえないような設定にすればこれは回避できる。

また違う作品の話になってしまうが現実世界の問題というのはジブリだったら比喩で表現し、それに対する考え方をストーリーで流していくと思う。そうすることによって見る人によっては”このキャラクターって現実世界の○○じゃない?”って思ってくれて、分かる人には分かるようになる。この作品がそれをやれば否定的意見が出にくく、風刺画みたいなメッセージ性も両立できたんじゃないかなと思う。

SFや異世界ではなく「竜とそばかすの姫」は現実世界に近い世界と現実にありそうな仮想空間という設定で描写した。それにも関わらず、比喩表現なしのご都合主義で虐待という現実に存在する問題を解決してしまったのだ。本気で親に虐待を受けた人間はあのシーンを取ってつけたように解決はしない。あのシーンに違和感を覚えない人間は恵まれた人間に思えるし、それを作った人間は恵まれた人間に思える。”助ける助ける助けるといって誰も助けてくれなかった”これを繰り返し恵は言った。しかし、この作品は果たして虐待を受けている人間を助けることになるのだろうか?セリフだけで満足していないだろうか?表面上の綺麗事だけで感動しているのではないのか?以上の理由でこの作品はフィクションとしては素晴らしいがフィクション以上の力を持たず、見終わった後の僕はこの作品を視聴する前と同じような僕のままで変化がなかったのだ。作る側が死ぬほど努力しているのはわかるのだが見る側もとても難しい作品だった。

書き換えるのであれば仮想現実の美女と野獣を貫徹させ、まとまりのある物語にするべきだった

この作品を見た人は、テーマの違う別のストーリーに振り回されたように感じることがある。これは作品内で言いたいことやテーマを詰め込みすぎだからだと思う。最初の母親の”周りの大人が動かなくても知らない人が困っているので助ける”というメッセージが発端になって野獣のオリジンである人間を探し、虐待された恵たちを探し出し助ける。それはいいのだが、その後周りの大人たちは積極的には動かず鈴だけが恵のために動くという違和感のあるシーンになっている。

その理由は

  • 母親が過去に起こした”周りの大人が動かなくても知らない人が困っているので助ける” という行動を鈴にさせるため
  • 仮想世界での本当の自分をさらけ出した鈴が現実世界でも勇気を持って行動した、ということを表すため

このようにストーリーとして筋を通すために一部のシーンが犠牲になっており違和感を感じる。自分が書き換えるとしたらどうするだろうか。

  • 母親のメッセージとして”知らない人でも知っている人でも助けなさい。人生とは助け合いだ”というメッセージに置き換える
  • 仮想世界で竜に興味を持つがそのオリジンを忍にする
  • 忍は鈴の母親がいなくなった時から面倒をみてくれたが実は闇を抱えていて仮想世界で竜になっていた

こうすれば伝えたいことが”知らない人を助けたつもりでも意外と身近な人なんだよ”というメッセージに変わり、まとまりのあるストーリーに見える。周りの大人たちが恵を助けない、という違和感のあるシーンも生まれないし、「仮想世界の美女と野獣」がそのまま「忍との恋愛という現実世界の美女と野獣」という恋愛で貫徹できておとぎ話、フィクションの魔法が解けることもない。そして伝えたいことを「他人を助けることによって母親の気持ちを知ることができた女の子の物語」から「知らない人間を助けたつもりでも身近な人間を救った物語」にする。この場合、忍の闇を描かないといけないので「ずっと幼いころから鈴を見ていたのに鈴は振り向いてくれない」などの闇を描かないといけない。

2023/12/9以下追記

今一度文章を見直してみると自分の考えが少し変わったように思える。作品自体のクオリティは変わらないが年月によって見る側のクオリティは変わるのだ。それはまるで、幼少期に熱心に見ていた戦隊ヒーローものを大人になってから見ると違う印象を受けるように。

話を戻す。今、この映画のことを振り返るとこれからの作品が楽しみだなと純粋に思った。なぜなら、今までの作品は家族が中心だったし、主人公の能力を家族のために使っておとぎ話的なハッピーエンドで終わり、という風な作品が多かった。それが「そばかすの姫」では少し変わったのだ。

今振り返ると鈴が虐待された父親から受けた傷は細田守の宣言であり、見ている人のメッセージなのではないかと感じる。「自分の能力を他人を守るために使う」という宣言である。だから他人のために血を流したのだ。そうか考えると自分の能力を家族のために使ってきた作品群とはやや異なる。というか過渡期の作品のように思えたのだ。

そういったことを思うとある作品が思い浮かんだ。それは「限りなく透明に近いブルー」だ。この作品では主人公が落ちていたガラス片に映った地元の風景を見るシーンがあった。それは作者の「真実をありのままに伝えるために生きたい」という宣言であると言われている。

「そばかすの姫」では仮想世界において自己表現することにより、そばかすというコンプレックスを克服し同じ顔の位置に傷をつけた。それは「自分の力を他人のために使う」作品を作りたいという作者の宣言であり見ている人にもそうであってほしいというメッセージなのではないか読み取れる。「限りなく透明に近いブルー」と「そばかすの姫」はテーマも分野も違うが作者の力強い宣言が隠されているという点では一緒なのかもしれないなと思い、最近この作品への印象が変わったのだった。