田中はゆるくいきたい

田舎や発展途上国は既になめらかな社会に到達していたのかもしれない

カルチャー

田舎に住んでいると時々、物々交換のイベントが発生することがある。物々交換のイベントとは農家の人間が米をくれたり野菜をくれたりすることだ。もらった側はそれを覚えていて自分の畑などでとれたものをもらった人間に後々お返しをする。

僕が幼少期住んでいた地域は比較的新しく作られた町なので農家は少なかったが、近所の人が旅行のお土産や買いすぎた食べ物を分けてくれたりすることは多くあった。そうやって田舎では物々交換のイベントが残っている地域も多い。

貸し借りで発生するセーフティネット

昔はこの行為が「貸し借りの強制」に見えて田舎っぽくて嫌いだった。しかし、今思うとそれはなめらかな社会を作るセーフティネットみたいなものだったのではないかと思える。それはどういうことか。

まず、こうした日々の貸し借りが発生することによって会話や他人を考えるきっかけになる。自分がどういう人間で相手がどういう人間なのかを確認する機会である。少なくとも相手や自分ができることを意識して生きることになる。

そういったことを考えていると昔読んだことのある本が思い出された。「その日暮らしの人類学」だ。著者はタンザニアのフィールドワークなどをしてこの本にまとめている。著者曰くタンザニアでは友人に誘われて軽く仕事をしたりお金を借りたり物を貸したりする。そうやってタンザニアをはじめとした発展途上国では、その場暮らしの経済が回り、お金だけではない人間中心の経済の日々を暮らしている。

そこには確実性や長期的目線は存在しないのかもしれない。しかし、その場暮らしの友人に誘われたビジネスや貸し借りという行為は、相手が困っていたら助ける、自分が困っていても助けてくれる人間がいる、という確認になるのだ。そしてそれは時としてチャレンジ精神や前向きな精神を生み出す。

物の送り合いも一緒に何かをするという行為もモノの貸し借りも変わらず、その場におけるコミュニケーションを引き起こす。短期的で意味が無いように思える習慣も長期的に見たらコミュニケーションの充実やその地域の安定につながっている。

貸し借りはモノでなくて良い

田舎や発展途上国ではなぜモノを送りあう習慣があるのか。多分それはモノを送りあうのが一番わかりやすい「味方アピール」だからだと推測する。相手がどんな人なのか分からないがとりあえず自分の余ったものを贈る。そうするとどんな人間か知ることが出来て「正体不明の敵」ではなくなる。

またそのコミュニケーションはお互い「味方アピール」が出来ればいいのであるからそれはモノの貸し借り、送り合いでなくても良い。例えばあの人はいつも食べ物をくれるから今度は自分が困ってることや相談に乗ってあげよう、とかそういうもので良い。

田舎や先進国ではモノが分かりやすい価値になっているだけであって「貸し借り」「コミュニケーション」の道具でしかない。「貸し借り」「コミュニケーション」をすることによって「味方アピール」や「親睦」を深めることが出来る。モノをはその目的の「道具」である。

分かりやすい価値しか評価できなくなった社会

人間を人件費や単価として計算しようとする資本主義や自分が大勢の人間と比較可能になる情報社会は分かりにくい価値を見えにくくする。現代社会では分かりやすい価値に対して金銭が支払われる社会だ。反面、分かりにくい価値や経験の評価ができなくなり「貸し借り」や「コミュニケーション」が途絶えがちになる。

対して田舎や発展途上国がしている貸し借りや物々交換は時として自分が生きる糧になりうる。資本主義や情報化社会が分かりにくい価値を計算できないのであれば、今こそ、それを補完する手段として「貸し借り」を一考しても面白いのではないか。