田中はゆるくいきたい

科学を信じることと神を信じることが矛盾しない理由

科学とは、宗教と相容れないものであり、神を否定する学問だと思われている。しかし、興味深いことに科学者の多くが神を信じており、その科学者たちは日々の研究や発見を以て神の存在や意義に疑問を投げかけている。果たしてこれは矛盾ではないのだろうか。なぜ、神の存在を信じつつ、実際のライフワークとして数式や計算でこの世のすべてを説明しようとする研究は成り立つのか。

地動説=神は存在しない、ではない

宗教と科学が対立した出来事として人類の初期で代表的なのは、地動説ではなかろうか。キリスト教が多くの人間に信じられつつあった時代では天動説が、人々の思想の主流としてあった。理屈としては、神は人間を作り出した→その人間を監視しているのは神で、人間が暮らしているのは地球である。→神も人間も宇宙の中心であり、拠って地球は宇宙の中心である。こんなところだろうか。

宗教を取り仕切っていた協会側もその権威の為、理論武装をした。具体的にはトマスアクイナスのテキストを公認した。そのテキストの中ではアリストテレスの宇宙観がもとになった理性が書かれていた。僕はこのテキストにどこまで書かれていたかは知らないがアリストテレスの「天は完全な球形である」「大地は宇宙の中心に位置している」という宇宙論から引っ張ってきたと考えると、内容を想像するには難くない。

さて、このような時代において協会側やマジョリティの天動説の考えに反して地動説を唱える人間がいた。この人間たちは多くの場合、計算や科学的な手法によって地球が回っているのだと気づいたのだが、神を信じていなかったわけではない。むしろ、神を信じていた人間ばかりだった。なぜか。

根本的なことを言うと、地動説が正しいから=神はいない、と言えるわけではない。なぜなら、地球が宇宙の中心でなく、惑星が順番に宇宙を移動していて太陽をまわっていようとそのルール自体を作っているのは誰なのか?という疑問は残るからだ。つまり、宇宙を数式で解明するという問題とその宇宙のルールやそのものを作ったのは神なのではないか、という問題は別なのである。

世界はうまくできすぎている

ふと思うことはないだろうか。この世界や人間、動物の生態はうまくできすぎているのではないか。この世界はもしかしたら作られた世界でその世界で生きているだけではないのか。今自分が見ている、目の前の風景がきれいすぎる、うまくできすぎている。

自分だったら以上のように考えるが歴史上の科学者も同じ気持ちだったのかもしれない。なぜ世界の物理法則は綺麗に数式で表されるのだろう。なぜ宇宙は綺麗に惑星が公転していて、なぜ地球だけが生物が育つことができたのだろう。

このいくつもの奇跡を偶然と考えるか、必然と考えるかの違いである。もちろん、科学者、哲学者、宗教関係者、多くの人々にとって神の定義は違う。科学だったら物理法則を完璧に作った存在を神と定義し、哲学だったら完全無欠の真理として神を定義する。

神の存在はその人間の立ち位置によって違う。また、ルールや法則がうまくできすぎていると疑ってみたり、根本的になぜそれが生まれたのか?という疑問を持つ人は一瞬神の存在が頭によぎる。そういった意味で科学者が数式や計算で真理を追究しながらも、一方では神を信じていることは矛盾しないのである。