田中はゆるくいきたい

なぜ、田舎と都会では流れる時間が異なるのか

よく言われる話だが、田舎に帰省や旅行した際に都市部とは生活が異なり「時間が止まっている」という感覚に陥ることがある。その原因は何なのだろうか。今回は内山節の「時間についての十二章」を読みながら考えてみた。

田舎の循環する時間

田舎には山があり海があり畑がある。より正確に言えば、自然を相手に生活をしている人間が多く存在している。都市部の人間よりその割合が多く、そしてそこで生活をしている人間のコミュニティもある。都市部の分解された個人の生活より田舎の自然を相手にした人間のコミュニティがより価値観が統一されていて結びつきが強固なのである。

その前提で田舎の人間の生活というのは循環している。稲作に限って言うと、春に苗を育て、夏が来て稲の成長を見守り、秋になると収穫、冬は土づくりをしたり休む。他の漁業や林業も一日の過ごし方こそ違うが一年の季節によって生活は変わってくる。

コミュニティの時間の流れ方も循環している。農村や漁村であれば季節によって生活が似通ってくるので暇な時間は集会やお祝い事をしやすくなる。そこで新しい家族が生まれたり、外部から人間が住み着いたりすることはまれにあると思うが基本はずっと同じことの繰り返しである。油断していると、この時間が永遠に続くのではないかと思わせる。

資本主義は不自由である

資本主義というのはお金と時間さえあれば人生や生活の選択肢に多様性が発生し自由になれる。しかし、ほとんどの人間は自由になることは出来ない。なぜなら、資本主義の世界では生きることにもお金が必要で、普通の人間にとってお金を稼ぐことは時間を消費してできることだからである。

時間やお金という単位は全世界の人間が認識できる客観的な数字である。だが、それだけにとらわれると人間は不自由になり不幸になるのではないかと僕は感じている。そういった客観的に評価できる分かりやすい指標とは別に、自身が持つ比較不可能な幸せを持った方が良いのではないかと思っている。

農村や地方の「時間が止まっている感覚」というのが自然や人間関係、循環する季節や生活を表したものだとするならばそれはお金や時間といった分かりやすい指標とは距離を置いた比較不可能な幸せなのではないかと思うのだ。