田中はゆるくいきたい

僕らは大きな鳥から逃げられるだろうか?きれいなガラスを見つけることができるのか?限りなく透明に近いブルーについて

背景としての対岸の火事とそれに侵食されていた自分

セックスシーンと暴力とドラッグそれが日常的に行われる環境で主人公もそれが普通だと思い生きている。楽しんでいるんだけど淡々と、それでいて一歩引いている。かと思えば一人で雨を見ていたりする。「本当に心から楽しんでいたらそんな考えことはしない」と女から言われるが主人公は「考え事をしながら今見ている風景と混ざり合う感覚が好きなんだ」と取り合わない。

村上春樹もこんな小説を書いてたような気がする。男と女がマンションのベランダから向こう側の火事を見ていてキスかセックスをしていた。確かノルウェイの森だった。村上春樹もいろいろなキャラクターが出てきたりする割には主人公や周りの反応は素気がなく淡々と進行する。挙句の果てには失踪したり死んだりする。

この年代の小説家はみんなこんな感じなのだろうか?それとも村上という苗字の一族は目の前で進んでいる物事よりもこんなにも淡々と自分の考えや自分のことをするのが優先なんだろうか?いや違う。この「限りなく透明に近いブルー」を読み切った時にはそれが分かる。

黒い鳥に押しつぶされないために

この作品ではやたらと鳥や虫、飛行機などの描写が出てくる。それは終盤にかけて激しくなる。まるでここまでの物語自体が何かの比喩であるかのように。

巨大な黒い鳥は今でも飛んでいて僕は苦い草や丸い虫と一緒に体内に閉じ込められている

時代背景としてはアメリカ兵や黒人がよく登場するので戦後間もないころだと推定される。史実通りの設定なら日本はアメリカに敗戦したころであり、そこから登場人物も各々の価値観を探しさまよっているように思える。僕にはこの「鳥」という表現が大きな社会や国、主義に聞こえてならない。個人でどうあがこうとも、どんな仕事に就こうとも、その場その場で面白いことをしようともそれに飲み込まれる。そんな大きな大きな「鳥」という存在。それに対する虚無感というか無力感に打ちひしがれる主人公という構図に見えてしまう。

それがドラッグの反動としてラストシーンで表現されているのかもしれない。そもそもここまで繰り返されてた暴力やセックスシーンやドラッグも自分で考えるべきものや心の弱さから逃げる描写だったと読んでしまう。自分は弱い存在で、だからこそ同類に見える虫が気になるのだ。

僕に殺された蛾は僕の全体に気づくことなく死んでいったに違いない。今僕はあの蛾と全く同じようにして、黒い鳥から押しつぶされようとしている。

そして最終盤。主人公は「限りなく透明に近いブルー」の存在に気づく。

限りなく透明に近いブルーになりたい

主人公はポケットの中にあるガラスに気づきそれを見る。夜明けの空気と相まってそれは限りなく透明に近いブルーに見えたのだ。街の稜線の白い起伏が目から離れない。

血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。限りなく透明に近いブルーだ。…このガラスになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。

ここの読まれ方にも諸説あると思う。主人公はこの街が好きなんだろう。何かを決意したようにも思えるしそれが変えられるかは分からない。ただ希望を持ったことは確かだ。

僕はただ単に目の前で起こっていることに大したそぶりも見せずに淡々と会話が進む様はクールでかっこいいなと思っていた。しかし、主人公が最後になって積り重なった感情が濁流のように出てきたシーンにはそれ以上の共感を覚えた。人間は重要な問題に対してみないふりをしてその場しのぎのことをしていても生きていけないのかもしれない。