「天気の子」を再評価している件

新海誠の作品に「天気の子」がある。僕が2019年時点でこの映画を見た時、あろうことかその他大勢の評価と同じことを思ってしまった。つまり"「天気の子」は「君の名は」の劣化版"という意見だった。

しかし、これは今振り返って考えるとかなりの間違いだったことに気づいた。その理由を述べたい。

天気の子は新海誠自身の物語だった

作中の登場人物の一人の女の子がいる。この子は晴れ女でいろいろな人間や行事で天候を晴れにすることができるという設定だ。しかし、多くの人間のために天候を晴れにすることで今度は自分自身の体が消えてしまうことになった。ここが僕的にはとても重要なところだ。この描写が新海誠自身のアニメ映画製作を示しているのではないか、と思っている。

作品内で女の子はみんなに喜ばれて、お金ももらえる。確かにいいこと尽くめなのだが、天気を晴れにした反動で女の子の体が消えてしまう。それは新海誠自身、いろいろな人間から褒められて、多くのお金をもらえてみんなが大喜びだということにリンクしている。そして、女の子の体が消える、それは周りの人間の言うとおりに作品を作っていたら新海誠自身が作品を作る意味がなくなってしまうのではないか、という比喩に見えてくる。

周りの人間というのはやや抽象的かもしれないが、近年のアニメ映画は音楽に力を入れ、映像が綺麗な作品がヒットする傾向にある。それに加え映画というのは上演する映画館の数によってほぼ売り上げが決まってしまう。こういった人たちのよく言えば協力、悪く言えば無言の圧力からストーリーや表現したいことをできなくなることが想像できる。もし自分のこだわりや表現したいことを押し殺して作品を作っていたとしたらそれはかなりのストレスなのではないかと思う。

間違ってでも生きたい若者vs正しさを押し付ける大人

この作品内では主人公の男の子が泊っているネットカフェの机の上に「ライ麦畑で捕まえて」が置いてあり、不思議に思った人も多いだろう。この本の軽いあらすじを言うと”純粋無垢なホールデンという名の主人公が汚い大人たちを嫌い逃避行する物語”だ。ホールデンは大人に対して不信感があるが本心では人と話すのが好きだ。心の奥底では人間を求めていて、自分が尊敬できるような人間を探しているのだ。そのホールデンが唯一心を開いて話すことができる人物に妹のフィービーがいる。妹に対して自分がなりたい人物像を絡めてこんな話をする。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E9%BA%A6%E7%95%91%E3%81%A7%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%88%E3%81%A6

この小説と「天気の子」に共通しているのは大人たちは"正しさ"を主張し、その主張を押しつけてくる割には”間違って”生きている大人たちも存在しており、それを隠すように生きているということだ。どちらの作品も大人たちはそのダブルスタンダードが存在することを隠し、子供たちや若者と話すときには”僕らはみんな正しいのだ。君は正しいのか?”という主張をしてくる。

主人公側は間違った食事(マック)や間違った問題解決方法(拳銃)でそういった大人に対抗をする。しかし、それを間違った方法と言っているのは大人たち基準での話でしかない。世の中にはそういった食事をして生きている大人もいて拳銃や武器で戦っている人間や金儲けをしている人間がいるのだ。

東京(大人たち?)を沈めた

エンディングでは女の子の無事と引き換えに東京を水没させてしまう。そういった「ライ麦畑で捕まえて」で言われる”汚い大人たち”の象徴である都市、つまり今の日本で言う東京を沈めるのだ。

この意味は2つあると思う。

  • 新海誠自身が正しさだけを追う人たちと決別したかった
  • 日本は東京だけではないのにも関わらず東京だけを光や水の描写で綺麗に書く(そうすれば売れる、喜ぶ人が多くなる)という自分が汚い大人になりかけていたことに嫌悪感を示した。

前者は前文で説明したが後者の意見について補足する。新海誠は日本ファルコムを辞める時に

日本ファルコムで作っていた映像がファンタジー世界であり、自分が暮らしている世界はそれとは全く別。自分の生活に密接したものを表現したかったから。

https://www.youtube.com/watch?v=Rjb_lVUXK4U

ファンタジーの作品を辞めたい、日常生活を描きたいという思いをいつしか失い、子供たちを感動させる物語(ファンタジー)を描いてしまった。それは汚い大人側がダブルスタンダードで生きていることと似ているのではないか、ということに気づいたのだろうか。

では次の作品はどうなるのか。それは都市部だけを綺麗に描写する物語ではなく、人間関係の物語を地方で描写したい、と言う新海誠自身の気持ちに沿った作品になるのではないかということだ。それは原点回帰の、壮大な音楽、綺麗な映像だけではなく日常的な作品になるのかもしれないと期待している。

https://suzume-tojimari-movie.jp/