田中はゆるく生きたい

「ドライブ・マイ・カー」と「それでも生きなければいけない系物語」について

その他

この間アカデミー賞にもノミネートされたドライブマイカーを見た。アップリンク吉祥寺という映画館で見たんだけど街にある小さな映画館、という感じでこじんまりしてよかった。

村上春樹エッセンス多め

内容の話をする。原作が村上春樹ということで映画でもよく表現されていたと思う。例としては

  • 人物の感情表現が抑えられていた
  • 人間がいきなりいなくなったり死んだりすること
  • 劇中劇自体が作品や人物の比喩、村上春樹の口癖でいうとメタファーになっているところ

などがあげられる。なので村上春樹の原作のどれかを読んでいて好きになった人間はこの映画のテイストも好きになれると思う。

このほかにも村上春樹の作品の特徴として「美男美女が登場しない(文章中でそう表現されない)」「都会の暮らしをしつつ文化的、健康的な趣味をたしなむ主人公」などもあるがこの映画ではそういった主人公ではなかった。多分、描きたいものが違ったのだろう。

描きたいもの、というのは一言で言うのは難しいがこれは「喪失と再生」の物語であるのは間違いがない。簡単に言うと「人それぞれ苦しいことがあるけれど僕たちは生きていかなければならない」ということだ。それは劇中劇のワーニャ伯父さんの引用、舞台である原爆から立ち直った広島、妻を失った主人公という設定からも明らかだ。

それでも生きていかないといけない

ワーニャ伯父さんという物語自体が「それでも生きていけないといけないよね」という物語なのだが、これにも理由がある。それは村上春樹が若いころ、ロシア文学に惹かれている時期があるということだ。そう考えると村上春樹の作品と言うのはロシア文学と似ているかもしれない。

一部のロシア文学と村上春樹の作品は始まりと終わりであまり変化がない、という点で共通点がある。何も変わらなかったという結果だけを聞くと得られたものは何もない、と思ってしまう人も多い。しかし、読者が現実世界に戻った時、その何も変わらなかった世界や結果に対して耐性のようなものができている、起こってしまった出来事の不幸や喪失に対しての準備ができている。それは村上春樹自身が口にしたこともある。その作家性は大きな変化や自分では逆らえないものに対して力強く生きる個人に対する応援のようにも見えなくはない。

苦しみや悲しみの共感

この作品が多方面、特にアジアに配慮しているという声もある。なぜそういわれるかというと、韓国人のカップルが出てきたり、劇中の配役に台湾の人物を採用したり、引用される劇は元々ロシアの戯曲である。これでは日本人だけで作った映画ではない。一部には日本人だけの物語や共感できる作品を期待している人もいるだろうと感じる。

しかし、僕は映像コンテンツや意味のあるものを見ようとするとき、これからは一つの民族や一つの人種だけの物語は世界に響かないんじゃないかと思っている。複数の人種や民族の共通する悲しみや共感を引用、並行させないとこれからの現実世界への意味のある作品にならないのではないか。残念ながら、一部の人のための物語は一部の人しか喜ばない。その他の人は共感できない。

今までは一つの物語、民族、人種の物語で良かったかもしれないけどそれは過去の話だ。これからの物語ではない。そういったことを確認する作品にもなってるんしゃないかなとも思う。そういう意味でこの映画が大人のためのもので、これからの世界を考える人の物であると考えるのは言い過ぎだろうか。