田中はゆるくいきたい

プラトン ソクラテスの弁明を読んだ感想

最近プラトンの哲学書を読んでいる

最近、哲学の本を読むことにはまっていてその流れでソクラテス文学なるものを読んでいる。今回読んだ本は「ソクラテスの弁明」若者に神を侮辱した内容の対話を教授しているとしてソクラテスが裁判にかけられ、そこで語った内容がこの本で語られている。

ソクラテスと裁判

この時代背景として紀元前490年~470年、古代ギリシャのアテナイにはギリシャ各地から先進的な知識を教授しようと集まってきておりソクラテスもアテナイの生まれとしてその熱狂的な知的な活動に身を置いていたとされている。

ソクラテスはこの頃、石工として生計を立てながら徳<アレテー>に関する議論を街角の様々な人としていた。その一部として過去の記事がこれ。

プロタゴラス あるソフィストとの対話を読んで

この活動が原因となってソクラテスは「不敬神」の罪によって裁判になる。これだけではわかりにくいが単純にいうと罪状は「神ではなく別のものを信じておりそれを若者に吹き込んでいる」という内容。

さて、裁判の内容ですが二度の票決によって決まる裁判制度です。一度目は有罪か無罪か。二度目は告発者と被告人が刑の重さを決めそれのどちらかに投票し多かった方の刑に決定。票を持っているのは500人の裁判官。ソクラテスはこの裁判において弁明によっては死刑が言い渡されるにもかかわらず哲学者(知を愛し求める者)としての立場を貫く。

結果的にソクラテスは死刑宣告され裁判は終わるがこの死刑には深い意味がある。まずソクラテスは真実を言い続けていたために裁判官や告発者から憎まれている。というか裁判の最後まで憎まれることを言い続けた。ソクラテスの主張は一貫して「あなたたちは大切なことを知っていると思い込んでいるが私は知らないと思っている」という。

これが誤用される無知の知のことだ。これは政治家、詩人、職人に対してこういった主張をし続けたために憎まれ、告発され裁判でも無罪を勝ち取れなかった。しかし、「憎まれること、有罪になること自体」はソクラテスが哲学者としてあるべき真実を言い続けた結果なのでソクラテスはこれで満足した。

僕はその気になればソクラテスは弁論をして無罪になることもできたと思っている。しかし、ソクラテスはしなかった。最後まで哲学者でありたいと思ったのだろうか。正しいことや真実を言っても感情的に憎いと思われた時点でうまくいかないことというのはこの時代だけでなく今の時代にも幾多となくある。その場その場でうまくこなしていくのか嫌われても真実を言い続けること(哲学者のように知を求め愛する)をするのか。現代に続く面白い問いだと思う。