田中はゆるくいきたい

今の時代に経済学ができること「絶望を希望に変える経済学」を読んで

人間の思い込みと統計

人間は思い込みをする動物、というのは大学で心理学や哲学を専攻している人間、あるいはその関連書物を読んだ人間は理解しやすいことだ。しかし、世間一般の人間には理解できないことらしい。それは政策や社会実験にも当てはまる。

例えば移民の問題がそうだ。大抵の移民は地元で働くよりも移住先のほうがお金を稼ぎやすいから移民してくるのではなく、地元の国や地域が治安的に危ないから来る。命の危険を感じるから仕方なく移動してきた人間たちが生活するために仕事を選んでいる。そもそも、移民を排斥してもその国の人間の所得が増えると断言しがたい。不満を言う前に自国で生まれ育ったのを生かして、他の国から来た人間以上に高単価でノウハウや知識がいる労働をすればいいはずである。しかし、後述するが人間は特定の地域の所得が多くても特定の業種の所得が多くても仕事を変えようとはしない。

また、都市部に住んでいると海外出身の人間がコンビニなどで働いているのをよく見ることがある。彼らが「移民」だとすると1円でも多く稼いで地元に仕送りしている人間はどれくらいいるのだろうか。ここら辺は気になるところだ。

この本では「移民=自国の労働を奪う悪=排斥するべき」というのはいささか単純なのではないか、という意見である。またアメリカで成功した会社の創業者は移民の出自の割合が少なからずある。その理由も明白でその国で高い地位の仕事に就くことは不可能だから新しいサービスや商品を作ることによって生活を維持するという方向に努力するからだという。

こういった風に移民にはメリットもある。テレビなどのメディアはこういったことをすぐ煽ったり、偏向した報道をする。メディアは情報を提供してはくれるが、その事件や出来事がどれくらいの確率で起こっているかを教えてはくれないのだ。

成長は終わり、格差は広がる

成長というのは無限に広がるものではない。それはアメリカとヨーロッパ、日本だって示している。近年の日本や世界の状況を見ると金融緩和をしても見た目上の数字は良くなるかもしれないが、国の経済が将来にわたって永久に成長できるわけではないことがわかる。

金融業や投資、ITなど特定の人間のみが儲かることで格差は今も広がっている。そうするとどうなるかというと政治の選挙で言葉使いが荒い人間や主義主張が差別的な人間が選ばれる傾向になる。人間は自分が貧困である原因を自分のせいにはしたくない。「移民が増えたせいで自分の仕事は無くなったのだ、リストラされたのだ」「自由貿易のせいで日本車が売れるようになり、アメリカ車が売れなくなり自分は解雇されたのだ」と人のせいや別の国のせいにする。そういった主張をする政治家を応援することで自分が不幸になった理由を合理化する。ちなみに、いったん解雇された人間は別の業種や別の会社に就職するための努力をあまりしないというデータが統計でもはっきりと出ているらしい。

貧困国が成長すればその国や企業に投資をしたほかの国の富裕層は儲かる。しかし、世界から成長する国がなくなったら投資をしても儲かりづらくなる。世界が日米欧のようになったら経済はどこを目指すべきなのだろうか。その答えが脱成長であるかもしれない。数字を追うのはやめて一人一人のの人間が尊厳を持って生きることなのではないか。

全員が幸せになるために経済学ができること

この本のメッセージは、「数字や名目上の成長を追うのはやめて、生きている人間の幸せにフォーカスをするべきだ」ということだ。これは実際、重要に思える。競争をし続けても、先進国から順番に経済の成長率が低くなるのでは数字を追っても意味がない。それに加え格差が広がっては思想的に亀裂が大きくなってしまう。そうするとメディアや政治家による分断により国自体危うくなってしまう。

経済学ができることで、全員が幸せに生きるためにできることはなんだろう。この本では「全員が経済や国の為にできることがあり、それが自分なりの行動や今までとは違う産業で生きること」という風に提案することであると締めくくる。これから自動化やAIが推進されても同じことが言えるだろう。ベーシックインカム、補助金や給付金のお金をもらって人間は生きていくことができるかもしれないが、それだけではアイデンティティの確立が難しくなるためである。