田中はゆるくいきたい

「オネーギン」は時間が戻らないことを教えてくれる

最近ロシア文学をまとめて読もうと思い、その流れの中で「オネーギン」を読んだ。

ネガティブの狭間で見つけるべき幸せとは何か

例には漏れずロシア文学というのはネガティブで、自分たちが身を置いている文化や居場所に対しての文句が連なっている。時にはそれが文化に、村に、社交界に、と言う風に。

さて、この物語はラブロマンスと言うべき小説なのではあるが、独特の哀愁が漂っている。一言で言うとこの物語は、若い村の娘であるタチヤーナの恋心を台無しにしてしまったオネーギンの後悔の物語だ。時間が経ちオネーギンがいくらタチヤーナに後悔の旨を伝えても、タチヤーナの気持ちは残念ながら変わらない。

タチヤーナは村から社交界へと居場所を変えるのだがそれも変えられない運命だと言う。

私にとってこんな華やかさも忌まわしい上流社会の虚飾も社交界の渦の中での成功も流行の邸宅も夜会も何の値打ちがありましょう。荒れ果てた庭と、貧弱なあの住居と初めて私が、オネーギン様あなたにお目にかかかったあの場所と ー 喜んで取り替えたいと思います。幸せは目の前にありましたのに ー でももう私の運命は決まってしまったのです。

二人はあの時間に戻りたいと思っているのにもう全ては決まってしまった。もう取り戻せない。なんというか、現実の重みを感じる文章だった。

最後に翻訳の話をする。この本は元々ロシアの韻文小説だ。しかし、日本語だとかなりとっつきにくい文章になっているのではないかと感じる。見る人間が若ければ若いほどそう感じる。なぜそう感じるか。それは”文章に幾重もの比喩表現や読者に呼びかけるような呼びかけ”が折り重なり、そこに意識を集中させようとすると、登場人物の誰が何をしたかの把握がおろそかになるからだ。残念ながら僕はロシア語が読めないのでそう表現せざるを得ない。

この小説の比喩表現や呼びかけ部分は作者のプーシキンが天才と呼ばれる一部分であると認識している。しかし、それが合わない人間は合わないし、それが100%良いと思わなかったのは自分の読解力不足でもあると感じた。簡素な文章を望む人間は多少の読みづらさを感じるかもしれない。